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2007年12月18日 (火)

共産党ビラ配り、僧侶に逆転有罪

この事件の記事を見て最初に思った事。
「共産党の僧侶って何?」

歴史上、最も僧侶を弾圧し殺しまくったのは共産党でしょう。
で、共産主義の核心の一つは「宗教はアヘンだ」で有名な「宗教の禁止」。

僧侶の血で真っ赤に染まった赤旗を振りかざす共産党に協力する僧侶ってなに?
頭痛い・・・。

護憲派としての死刑の問題

「死刑」を人権の概念から反対する人たちがいます。
まあ、人権を軸に考えれば死刑自体に反対する事はありでしょう。

問題は刑とは何かを忘れずに議論することです。
更に日本での問題なら日本国憲法を前提としなければなりません。

まず、国や大きな組織の刑には大きく3つの目的があります。
1.犯罪被害者による連鎖犯罪の防止。
2.社会を運営するための構造を乱す者の排除。
3.犯罪を高コストにすることによる犯罪の抑止。

3はわかりやすい「罪の重さの報いとしての罰」ですが、これは説明不要でしょう。

2は組織を運営維持する側の論理、いわゆる秩序の維持としての刑罰ですが、社会を安全に維持するための必要悪といえる部分です。

1が非常に重要ながら忘れられる部分です。
犯罪に対して刑罰が軽ければ、被害者は恨み、苦しみ、悲しみから逃れることが難しくなります。
更に犯罪に対する罰が軽いのであれば、自分が同等の復讐をしても刑は軽くなると言う考えが生まれ、被害者による復讐合戦を助長する可能性が出てきます。
これはいわば「無法状態」で、「報復合戦の連鎖」と「復讐を防げればやった者勝ち」という恐怖の世界になります。
いわゆるハンムラビ法典が出来た理由の世界ですが、これを防ぐのが最も重要なのです。

次に「死刑」を考える場合には「殺人」と言う犯罪が当然出てくるでしょう。
逆に殺人以外で死刑に該当する犯罪は考えることが難しいです。
(非民主的だったり独裁的だったりする国や組織なら別ですが。)

この場合死んだ人の人権をどう考えるかが最重要課題です。

理由は簡単で、
「死人に人権が無いのであれば、死刑にしてしまえば人権は消滅するから人権問題は発生しない」
と言う、一見とんちのような理屈で死刑が肯定できてしまうからです。

おかしい、と言う人もいるでしょうが、殺された被害者の人権を尊重しないのならそうなってしまいます。
「今死んでいる人」よりも「今生きている人」の権利をと言うのであれば、いま死刑に処してしまえばその人は「今死んでいる人」になってしまうからです。
(正直、こういう人権の重みの差別は好みではありません。)

日本国憲法の原理では「基本的人権の尊重」が謳われています。
ここは正直、私の中では答えを出せていない部分です。
私は死んだ人の人権を尊重したい考えなので、最悪の形で人権を奪う殺人者には「基本として」最大の刑を科する必要があると考えています。

単純な考えなら死刑が該当ですが、これは答えを出せていません。
拷問や強制労働も量刑的にはありですが、日本国憲法第36条があるので憲法違反でできません。
既存のありきたりの方法なら、漫画みたいに懲役200年とか500年と言う長期の刑期設定で、本当なら特別な長期受刑者への報酬や差し入れの制限もあげたい所ですが、これも第36条抵触の可能性があるので解釈を考えなければなりません。

死刑反対を声高に叫んでいる特に護憲派の人たちは、何かよい回答を持っていると事と思います。
特に死んだ人の人権を守る面でよいアドバイスがいただければ幸いです。

2007年12月14日 (金)

憲法九条を守るということ

9条を守ることを骨子に護憲派と自称する方達がいます。
しかし、そういう人たちの中で憲法の原理を表に出して重視している人が少ないのが悲しいです。

先日、品川正治氏の公演を拝聴しましたが、
「国民に主権があります」と明言されていた感動しました。
また、「もし今日本が戦争を起こしたら、その責任は主権者である国民にある」と言うことも仰いました。

平和集会というと、なぜか外国人参政権の話などに行ったり、今だとなぜかパトリオットの配備反対が重要視されていたりします。

日本国憲法9条は日本国憲法の存在によってなっている条文です。
護憲派と言うのであれば日本国憲法3大原理が侵されていないか、それこそが最重要課題であるはずなのに、そんなのそっちのけでアメリカを叩けば良いと思っている人が多いようです。

他所のブログで以下の様なトランスフォーマーの話も無視されました。
>敵役の悪の司令官メガトロンというのが居ますが、こいつの目的は「圧制による平和」で、永遠の平和を得ようと戦っています。
>対する正義のコンボイ司令官(オプティマスプライム)の目的は「自由とは全知的生命体の権利である」で、自由(と民主主義)を守るために戦っています。
>良く考えると面白い表現をしていて、悪の目的は「平和」で正義の目的は「自由」。こういう命題をきちんと理解して自分なりの回答を出せなければいけない。

アメリカは非常に自由と民主主義を重視している国です。
自分達の中の正義でこれらを判断してどんな手を使っても実現する辺りに強権的な危険を感じますが、こういう彼らの原理を基本的に理解していないとなぜ彼らが戦争ばかりしているのかは理解できないでしょう。
平和は平和だから平和を望むために軍は悪だ、こういう思考の人も世の中に入るようですが、これではアメリカの人とは議論になりませんね。

2007年12月13日 (木)

民主主義の基本

他所のブログでナチスと沖縄教科書抗議集会を比較したら、ナチスと比較して上とか下とか言うのはおかしいとかなり腹を立てた方が出てきました。
「ナチス=悪」という図式だけが頭あると、そのままイコールの思考でこういう反応をすることがあります。

ナチスだから悪、と言うのは間違い。
ナチスが何々をしたから悪、と言うのなら正解。
ナチス党を例に出したとしても、個々の事例で優劣を話せば絶対悪であることなんかありえません、絶対悪なんて存在しないのですから。

ナチス党は合法民主的選挙を足掛かりに独裁化したと言う、民主主義の問題点を考える材料としてよい参考となる事例の一つです。
選挙だけで言えば、政権を取るまでは(諸々の活動はあったものの)悪の権化とすることはおかしいでしょう。
これがおかしい、悪とだ言うなら、民主選挙の被選挙者となる事が悪になってしまいます。

無論、個別の問題点を指摘してそれをまとめるのであれば何の問題もありません。
(ナチスは選挙で色々問題行動をしている事ですし。)

最初の問題

他所のブログで、2007/9/29の沖縄教科書抗議集会の参加人数に関して、
「主催者側の人たちから人数の確認をすればいいじゃないの?。」
「みんなで確認しましょうよ。」
「確認しようと言う声が出てこないのが怖いです。」
と言う意見を書いたら、全力で叩かれました。

何でも、
「集会参加の人数は確認できない物だから、沖縄の集会の人数は確認しなくてもよい」
「こういった平和集会では人数は多めに発表する物だから確認しなくてもよい」
「超党派の集会だから確認しなくてもよい」

また、歴史上の「選挙の票を捏造していない話」と、今回の集会の参加人数の捏造を並べて比較したら、
「そのたとえはおかしいから沖縄の集会の人数は確認しなくてもよい」
と言う話まで出てきました。

どうしてこれだけ11万人と言う人数を確認しなくてよいという理由を付けるのかよくわかりません。

何でもいいから確認してみれば良いのに。


ブログ作成の要旨

単純な話で、個人的に思った事を垂れ流すのが目的です。

コメントやトラックバックも気づいたら垂れ流すことが多いでしょうけれど、主に時間的問題による面倒くささで放置することもままあるでしょう。

あと、あんまり長くなるとそれも面倒ですからコメントなどの反映を放置するかもしれません。

そんな感じです。

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